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あなたは独り、完全に独りきりだ。
これは極めて明確に理解されなくてはならない。
人は意識するようになるや、独りになる。
意識が大きいほど、自分が独りであるという気づきは大きくなる。

だから社会、友人、会合、群衆によって、
この事実から逃避してはならない。
それから逃げてはいけない!
それは大いなる現象だ。

進化の過程全体は、それに向かって少しずつ進み続けている。
意識は今や、自分は独りなのだということを知る地点にまでやって来た。
そして「独りで在ること」(アロンネス)においてのみ、
あなたは光明を得ることが出来る。

私は「孤独」(ロンリネス)と言っているのではない。
孤独の感覚は、人が独りで在ることから逃げようとしている時、
それを受け容れる用意の出来ていない時に生じる感覚だ。

独りで在るという事実を受け容れないなら、その時には寂しく感じる。
あなたは自分自身を忘れる為の群衆や、
あるいは何か酔っぱらえるものを見つけるだろう。
孤独は、それ特有の忘却という魔術を生み出す。

もしあなたが、ほんの一瞬でさえ独りでいられるなら、
全面的に独りでいられるなら、自我(エゴ)は死ぬ。
「私」は死ぬ。
あなたは爆発し、もういない。

自我は独りの状態で生き残ることは出来ない。
それは他者との関係においてしか存在出来ない。

いつでもあなたが独りの時は、奇跡が起こる。
自我は弱くなる。
それはもう長くは存在出来ない。

だから独りでいられるほどの勇気があるなら、
次第に自我がなくなってゆく。
独りで在ることは、極めて意識的で思慮深い行為だ。
自殺よりも思慮深い。

自我はひとりの状態では存在出来ないが、
自殺においては存在することが出来るからだ。
エゴイスティックな人はより自殺しやすい。
自殺はいつも他者との関係の中にある。

それは決して独りで在ることの行為ではない。
自殺においては自我は痛手を受けない。
むしろそれは一層顕示される。
それはより大きな力をもって新しい誕生へと入ってゆく。

独りで在ることによって、自我は打ち砕かれる。
関係するものを何も持たない為に、それは存在出来ない。
だから、もし独りで在る用意が出来ているなら、
揺らぐことなく独りで在るなら・・逃げることも後退することもなく、
独りで在ることの事実をありのままにただ受け容れるなら・・
それは大いなる機会になる。
その時あなたは、内に多くの可能性を秘めた種子のようになる。

だが覚えておきなさい。
植物が成長する為には、種子は自らを破壊しなければならない。
自我は種子、可能性だ。

もしそれが打ち砕かれれば、神性が誕生する。
その神性は「我」でも「汝」でもない。
それはひとつだ。
       
独りで在ることを通して、
あなたはこの「ワンネス(全一性)」に達する。

このワンネスの偽りの代用品を作ることも出来る。
ヒンドゥ教徒はひとつになる。
キリスト教徒はひとつになる。
イスラム教徒はひとつになる。
インドはひとつだ。
中国はひとつだ。
こういったものはワンネスの単なる代用品だ。

ワンネスは全面的な独りで在ること(アロンネス)を通してのみ訪れる。

群衆は、自分達をひとつだと呼ぶことは出来る。
だがその一体感は、いつも何か他のものとの対立の中にある。

群衆はあなたと共にある為、あなたは安心する。
今やあなたには責任がない。
あなたはひとりではモスクを燃やしはしないだろう。
ひとりでは寺院を破壊しはしないだろう。
だが群衆の一部としてのあなたには、それが出来る。

もうあなたには個人的な責任がないからだ。
全ての人に責任があるのだから、特定の誰かに責任がある訳ではない。
個人の意識はどこにもなく、ただ集団意識だけがある。
あなたは群衆の中に後退し、動物のようになる。

群衆はワンネスの感覚に対する偽りの代用品だ。
その状況に気づいている人、人間としての責任に気づいている人、
人間である為に生じる困難で骨の折れる仕事に気づいている人は、
どんな偽りの代用品も選ぶことはない。
彼は、ありのままの事実と共に生きる。
どんな虚構も作り出したりしない。

宗教や政治的イデオロギーは、
ワンネスの幻想を作り出す虚構に過ぎない。
ワンネスは、自我のない状態になる時にしか生まれない。

そして自我は、全面的に独りで在る時、初めて死ぬことが出来る。
完全に独りの時、あなたはいない。
その瞬間こそ爆発の時だ。
あなたは無限なるものへと爆発する。
これが、そしてこれだけが進化だ。

私がそれをレボルーション(変革)と呼ぶのは、
それが無意識的ではないからだ。
あなたは自我のない状態になるかもしれないし、ならないかもしれない。
それはあなた次第だ。

独りで在ることこそ、唯一の真の変革だ。
それには大きな勇気が必要とされる。

仏陀のような人だけが独りなのだ。
イエスやマハヴィーラのような人だけが独りなのだ。
それは、彼らが家族から、世間から離れて行ったということではない。
そのように見えるが、そうではない。
彼らは消極的に何かから離れようとしたのではない。
その行為は積極的なものだった。
それは独りへと向かう動きだった。

彼らは離れて行こうとしたのではない。
全面的に独りで在ることを探し求めていたのだ。

探究の全ては、独りで在る時に起こる、爆発の瞬間へと向かうものだ。
独りで在ることの内に至福がある。
そしてその時、初めて光明が達成される。

私達は独りではいられない。
他の人々もまた独りでいられない。
だから私達は集団を、家族を、社会を、国家を作る。
全ての国家、全ての家族、全ての集団は群衆で成り立っている。
独りで在れるほどの勇気のない人々で成り立っている。

真の勇気とは、独りで在る勇気だ。
それは自分は独りなのだという事実、
その他には在りようがないという事実の、意識的な理解を意味する。

あなたは自分自身を欺くことになるか、それとも、
この事実と共に生きることが出来るかのどちらかだ。
あなたは何生にもわたって自分自身を欺き続けることも出来る。
だがそれは、悪循環に陥るだけだ。
独りで在るというこの事実と共に生きることが出来さえすれば、
その循環は断ち切られ、あなたは中心へと至る。
その中心は神性の、全体の、聖なるものの中心だ。

私には、あらゆる人間が生得の権利として、
これを実現し得る時など想像出来ない。
それは不可能だ。

意識は個人的だ。
無意識だけが集合的だ。
人間は、自分達が個人となる意識の地点にまで到着した。

人類というようなものは存在しない。
ただ個としての人間だけが存在する。
それぞれの人間が、自分自身の個人性と、
それに対する責任を悟らなければならない。

私達がしなければならない第一のことは、独りで在るということを
根本的事実として受け容れ、それと共に生きることを学ぶということだ。

どんな虚構も作り出してはならない。
虚構を作り出せば、あなたは決して真理を知ることは出来ない。
虚構とは、事実を知ることが出来ないように考案され、
創作され、でっち上げられた真理のことだ。

独りで在るという事実と共に生きなさい。
もしこの事実と共に生きることが出来るなら、
あなたとこの事実との間にどんな虚構も存在しないなら、
真理はあなたに明かされる。

あらゆる事実は、もしそれを深く究めるなら、真理を明らかにする。
だから自分に責任があるという事実、
自分は独りなのだという事実と共に生きなさい。
この事実と共に生きることが出来れば、爆発が起こるだろう。

それは骨が折れる。
だが、それこそが唯一の道だ。
困難を通して、この真理を受け容れることによって、
あなたは爆発の起こる地点に達する。

その時初めて至福がある。
それが既製品として与えられるようなら、それは価値を失う。
あなたはそれを働いて得た訳ではないからだ。

あなたは至福を感じ取れる受容性を持っていない。
この受容性は修練からのみ生じる。
自分自身に対する責任と共に生きることが出来るなら、
修練が自動的に訪れる。

自分自身に全面的に責任を持つことで、
あなたは修練されたものになるしかない。
だがこの修練は、外側からあなたに押し付けられたものではない。
それは内側からやって来る。

あなたが自分に対して取る全面的な責任ゆえに、
あなたの取る一歩一歩は修練となる。
あなたはひとつの言葉さえ無責任に口にすることは出来ない。

自分自身の「独りで在ること」に気づくなら、
他人の苦しみにも気づくようになる。
すると、ただひとつの無責任な行為もおかせない。

なぜなら、あなたは自分自身に対してだけでなく、
他人に対しても責任を感じるからだ。

「独りで在る」という事実と共に生きることが出来れば、
あなたはあらゆる人が孤独であることを知る。
その時、息子は父親が孤独なのを知る。
妻は夫が孤独なのを知る。
夫は妻が孤独なのを知る。
ひとたびこれを知れば、慈悲深くあるしかない。

事実と共に生きることが、唯一のヨーガ、唯一の修練だ。
ひとたび人間の状況に全面的に気づいたなら、あなたは宗教的になる。
自分自身のマスター(主人)になる。

だが、それがもたらす簡素さは、苦行者の簡素さではない。
それは押し付けられたものではない。
醜くはない。
その簡素さは美的だ。

あなたはそれが唯一可能なことであり、他にはやりようがないと感じる。
こうしてものごとを放棄し、非所有となる。
所有したいという衝動は、独りではいられないという衝動だ。

人は独りではいられない。
だから彼は仲間を求めるのだ。
だが他人である仲間は頼りにならない。
そこで彼は、その代りに物の仲間を求める。

妻と一緒に生活することは大変だが、自動車と一緒に生活することは、
それほど大変ではない。
だから最終的に、所有は物へと向かうのだ。
あなたは人を物に変えようとさえするかもしれない。
彼らが人格や個性を失うやり方で、型にはめようとする。

妻とは人ではなく物だ。
夫とは人ではなく物だ。
自分が「独りで在ること」に気づくようになれば、
あなたは他の人達も「独りで在ること」に気づくようになる。

そうすると、他者を所有しようとすることは、
侵害することだということが分かる。

あなたは決して積極的に放棄するのではない。
放棄は、独りで在ることの副次的な影になる。
あなたは非所有になる。
その時には夫でも妻でもなく、愛する人になることが出来る。
この非所有と共に、慈悲と簡素さが生じる。

無垢があなたに訪れる。
生の事実を否定する時、あなたは無垢ではあり得ない。
あなたはずる賢くなる。
自分自身と他の人々を欺く。

だが、 在りのままの事実と共に生きるほどの勇気があるなら、
あなたは無垢になる。
この無垢は作り上げられたものではない。
あなたがそれだ。無垢そのものなのだ。

oshoの世界

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プロフィール
・名前 Bodhi Taru
・生年月日 1961/11/15
・種別 地球人、人間種、男性


* Topics of life

・1973年 ギターに出会う。
・1979年 嶋本昭三さんに出会う。モダン・アート三昧。
・1982年 インドに出会う。放浪開始。
・1986年 ネパールでoshoラジニーシに出会う。
・1989年~1991年 オランダ、アムステルダム市在住。Reggae三昧
・1992年 インドのラクノウでプンジャジに出会う。
・1994年 ジャマイカのキングストンでアール・チナ・スミスと出会う。
・1998年 レイキ・マスターとなる。
・2002年 インドのホワイトフィールドでサイババに出会う。
・2010年 ディクシャ・ギバーとなる。

いろんな物や人、場所に出会って感謝
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